みなさんこんにちは NAMIです。
今回はかなり暗いお話になります。
ホロコーストの始まりともいわれる、アウシュビッツ強制収容所へ行ってきました。
今回は実際にその場へ行ってみて、私が感じたこと、その場の写真もたくさん乗せるつもりです。
気分が悪くなったりするかもしれませんので、お気を付けください。私は伝えたいこと、ありのままを書いていくつもりです。
※ぜひ、読んでいただきたいですが、犠牲者の遺留品写真など多く出てきます。その際は自己責任でよろしくお願いします。
アウシュビッツではいまだなお、その当時のまま保管されており、大勢の犠牲者を出したガス室、犠牲者の靴、強制収容所内で実際に使われていたのもなど、当時の悲しみ、苦しみもそのままに保管、維持されていました。
正直、私自身も思わず言葉をなくしたほどです。何もなく、ただ、深い悲しみと苦しみと息苦しさがありました。
今もなお、写真などで振り返ると、外なのに、鼻の奥にホコリとカビの匂いが蘇ってくるようです。
また当時の姿のままなのに、周りの風景は時間と共に風化し、当時は固く冷たい地面も、今では花が咲き乱れ、空も明るく、光が煌々と射していました。
今の私たちが目を背けてはいけないこと。あなたに見届けてほしい。
たとえ辛くとも。それが、今の私たちが知るべき負の遺産だと思っています。
アウシュビッツ強制収容所とは?
まずアウシュビッツ強制収容所について簡単に説明したいと思います。
アウシュビッツ強制収容所は1940~1945年に渡る、ナチス・ドイツの強制収容所で、世界でホロコースト(第二次世界大戦中のドイツ国がユダヤ人などに対して組織的に行った絶滅政策・大量虐殺)が起きました。
ドイツによるポーランド侵攻で第二次世界大戦が勃発。そこからドイツはどんどん侵略していき、侵略が進むぬつれ、ユダヤ人の強制収容も過激さを増していきました。
ではなぜ、ドイツはユダヤ人を主な対象としたのでしょうか?
ユダヤ人迫害の背景
みなさんはユダヤ人とは、どのような人種か知っていますか?
ユダヤ人とは、ユダヤ教の信者またはユダヤ教信者を親に持つ者によって構成される宗教信者のことをさします。
つまりは属する宗教のことであり、出身国からくる人種ではありません。
ではキリスト教とユダヤ教とはなにがちがうのでしょうか?
実本元は同じのようで、とても簡潔に言うと、ユダヤ教は神を信じ、キリスト教はイエス・キリストを主として崇めています。
ナチスドイツ率いる有名なヒトラーはユダヤ人を徹底的に排除しようとしました。これはなぜなのでしょう?
それは遠い過去、ユダヤ教を広めようとしたイエス・キリストはその当時、すさまじい勢いで信者を増やしていきます。
ですが、ユダヤ教は広く知らしめることをよく思わず、イエス・キリストを張り付けにしてしまいます。
キリスト教徒はイエスキリストを磔刑にしたユダヤ教を恨んでいます。
こういった背景もあり、そのほかにも理由をあるとは思いますが、次第にユダヤの子もユダヤと、血筋で迫害の対象となり、理由も曖昧になっていき、ユダヤ滅亡計画としてアウシュビッツへ運ばれ、殺害されていきました。
アウシュビッツ 1号
今現在残されているのはアウシュビッツ1号とアウシュビッツ2号・ビルケナウ収容所です。こちらはアウシュビッツ1号、最初にできた強制収容所です。
過去にはアウシュビッツ3号・モノビツェ収容所、化学工場などもありました。
現在では当時の犠牲者の遺品や写真などを保管、展示され博物館となっています。
アウシュビッツがあるのは当時占領下となっていたポーランド、ドイツの占領下となっていたヨーロッパのほぼ真ん中に位置してあります。
最初の頃はポーランドの囚人を多く入れていたそうですが、交通の便もよかったため、すべてのヨーロッパ各地からの人々がここに連行されてきました。
この収容所を建てるためにそこに住んでいた元のポーランドの住民は強制退去となり、家は破壊されました。
次第に二つの目の役目も果たすようになりました。ヨーロッパにおけるユダヤ人絶滅センターとなったのです。
ユダヤ人は、性別・年齢・職業・国籍と政治的思想を問わず“ユダヤ人である”という理由だけで殺害されました。
↑アウシュビッツ2号・ビルケナウ収容所。ホームに立つハンガリーから連行されたユダヤ人。奥には死体焼却場のガス室と焼却炉の建物が見える
新しく連行されてきたユダヤ人の大半がSS医師の選別で労働に適さないと判断され、ガス室で毒殺されたのです。老人・病人・妊婦・子供には生き残る権利がありませんでした。
※「SS」…ナチス親衛隊。とくにエリートが集められ、SS男性隊員8000人と200人の女性監視員が任務に就いていた。
「Arbeit macht freiー働けば自由になる」
↑アウシュビッツを訪れると、目にするのがこのアーチ。Arbeit macht freiと書かれたアーチにはドイツ語で「働けば自由なる」とかかれています。聖書の中のWahrheit Macht Frei – Truth Will Free You というフレーズから取られたものです。
1930 年代初頭、ドイツの失業率が高かったため、Arbeit Macht Freiというスローガンが非常に人気を博しました。ヒトラーは、ドイツ人はよく働くが、ユダヤ人はそうではないという政治的考えを生み出しました。そしてすぐに、ユダヤ人の囚人を非人道的な条件で働かせたドイツのナチス将校のお気に入りの引用になりました。このスローガンは、ヨーロッパ中の多くの強制労働収容所や絶滅収容所の門の上に掲げられました。
このアーチをよく見ると「B」の文字が上下逆になっていることがわかります。
このアーチの作成は当時の熟練された技術を持つ囚人が作り、反発の気持ちを込めて逆に仕上げたそうです。
それだけでもかなりの勇気が必要で、危険な行動だったでしょう。
アウシュビッツに収容された囚人たちは、毎日2回、このアーチをくくらなければなりませんでした。
盗まれたアーチ
2010 年 12 月 18 日の早朝、強盗団がアウシュヴィッツに侵入し、Arbeit Macht Freiのサインを外しました。車に収まるように、標識を 3 つの部分 (各部分に 1 つの単語) に切り分けました。そして彼らは強盗の後、車を走らせ逃亡。
盗難はその朝遅くに発見され、その後に続いたのは国際的な抗議でした. ポーランド政府は非常事態を発令し、国境警備を強化しました。そして、行方不明のサインとそれを盗んだ強盗グループの全国的な捜索が始まりました。
3日後、ポーランド北部の雪に覆われた森でArbeit Macht Freiのサインが見つかりました。その後、スウェーデンから 1 人、ポーランドから 5 人の 6 人の男が逮捕されました。元スウェーデンのネオナチ、アンダース ホグストロムは、スウェーデンで 2 年 8 か月の懲役を言い渡されました。他の 5 人のポーランド人男性は、6 年から 2 年の刑期を言い渡されました。
Block4-犠牲者の資料館
アウシュビッツ1号は現在では資料や犠牲者の遺留品など展示されています。
当時ではSS隊員の待機場所であったり、囚人の監獄でもありました。
ブロック4では当時の犠牲者の人数やどのような様子であったのか、などの資料と、壁一面の大量の女性の髪の毛(2t)が保管されていました。
アウシュビッツに収容された女性は髪を短く切り添えられるか、丸坊主にさせられました。
↑収容所へ連行された国別の図
Block5-犠牲者の遺留品
Block5にはアウシュビッツに収容された際に、没収されたメガネ、ギブス、靴、鞄などが展示されています。
↑没収された被害者の眼鏡
↑ガラスはほとんどまっておらず、割れている
↑ユダヤ人が祈りをするために使用する特別な布
↑ギブスや松葉杖なども没収された。
↑収容所で使用されていた食器。ほとんど底に穴が開いており、さび付いている。
↑犠牲者の靴
↑壁一面に山のように靴が展示されている。ガス室へ向かう前など、所持品はもちろん、衣類もすべて脱いでこれから向かう場所もしらず、子供や女性、働けないと判断された人々はそこへ向かった。
↑両側すべて靴が展示されている。そのおびただしい数に、不安がひしひしと伝わる。
↑大量の子供の靴
↑子供は特に多くの被害にあった
↑被害者の鞄たち。中には住所や自分の名前など書かれている。
↑大量殺人に使用されたチクロンBの空き缶。
Block6-犠牲者の写真
↑ブロック6には犠牲者の写真が壁中に貼られていた。
全員やせこけており、目に生気がなく、ただ、たんたんと、前を向かされ証明写真を撮らされているように感じた。
↑アウシュビッツにで着せられていた囚人服。服にはナンバーが縫い付けられていた。
↑アウシュビッツへ収監され、SS医師による判断で労働ができるとされた人々は名前を捨て、ナンバーのタトゥーを彫られ、収容所の囚人として登録されました。
その場で労働ができないと判断された場合、囚人番号もつけられず、ガス室で毒殺されました。
↑収容された人たちはワッペンでカテゴリー分けられていた
Block7-当時の水道やベッド
↑ブロック7には当時使用していた、トイレやベッド、手洗い場などが展示されている
↑1941年~1945年までの洗面所。この施設ができる前は、外の洗い場しかありませんでした。
↑ベッドに敷かれていた藁。劣悪な環境の中、藁のベットで眠らなければなりませんでした。藁は湿り気を帯び、不快でしかなかったそう。
↑1941年までは藁でできたマットレスの上で一緒に寝かされていました。朝になると、マットレスを集め、部屋の隅へ並べなければなりませんでした。
↑1941年~1945年までのトイレ。これらの設備ができる前は外で用を足すしかならりませんでした。
Block11-「The Death Wall-死の壁」
※からはかなり過激になります。今から見るものはそこで何千人もの人々を殺害した中庭です。
↑ブロック10と11の間には「The Daeth Wall-死の壁」と言われる壁と、「The Post-ポスト」と言われる拷問場所があります。
1941 年から 1943 年にかけて、親衛隊はブロック 10 と 11 の間のこの中庭の壁に向かって数千人を射殺しました。
ここで処刑された人々のほとんどは、ポーランドの政治囚であり、とりわけ、秘密組織の指導者やメンバー、逃亡者を助けたり助けたりした人々でした。
近くの町で死刑を宣告されたポーランド人もここに連れてこられ、ドイツの占領に対するポーランドの抵抗活動に対する報復として人質に取られた男性、女性、さらには子供までもが撃たれました。 ユダヤ人やソビエト捕虜を含む、他の国籍や民族的出身の囚人も、この壁で時々撃たれました。
親衛隊はここで残忍な処罰を行いました。むち打ちと、腕を背中の後ろでひねり、手首で柱に吊るす「ポスト」として知られる拷問です。
処刑の壁は、収容所当局の命令により 1944 年に解体されました。 その後、処刑は別の場所で行われ、ほとんどの場合、アウシュヴィッツ・ビルケナウのガス室と焼却棟で行われました。
戦後、博物館によって処刑壁の一部が再建されました。
↑「The Daeth Wall-死の壁」
↑「The Post-ポスト」
今あなたはSSが何千人もの人々を殺害した中庭の写真を見ています。 ここでは沈黙を守り、今一度、彼らの苦しみを思い出し、彼らの記憶に敬意を表してください。
ブロック 11 は「デス ブロック」として知られていました。 それはいくつかの機能を果たしましたが、その中で最も重要なのは収容所の中央監獄としての役割でした。
この建物には、収容所全体の男性と女性の囚人が収容されていました。 これらの人々のほとんどは、ゲシュタポ収容所によって、逃亡の試み、反乱の組織化、外界との接触の維持などの秘密活動への関与が疑われていました。
囚人を援助したために逮捕された収容所の外から来たポーランド人も、ここに投獄されました。
残忍な尋問の後、ほとんどの場合、彼らは銃殺刑を言い渡されました。
収容所の初期には、Strafkompanie (懲罰部隊) と Erziehungskompanie (再教育部隊) もこの区画に収容されていました。
アウシュヴィッツの聖者‐マキシミリアノ・コルベ
ブロック11の地下にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で餓死刑に選ばれた男性の身代わりとなったマキシミリアノ・コルベの餓死刑があった地下牢がある。彼はのち、「アウシュヴィッツの聖者」と呼ばれる。
1941年7月末、収容所から脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。囚人たちは番号で呼ばれていったが、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる」と泣き叫びだした。
この声を聞いたとき、そこにいたコルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た
責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスは、この申し出を許可した。コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。
通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベは全く毅然としており、他の囚人を励ましていた。
時折牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツ(Bruno Borgowiec)は、牢内から聞こえる祈りと歌声によって餓死室は聖堂のように感じられた、と証言している。
Gas Chamber-ガス室
↑アウシュヴィッツの最初の司令官ルドルフ・フェルディナント・ヘスは、戦後、ポーランドの最高国家裁判所によって裁判にかけられ、死刑を宣告されました。1947 年 4 月 16 日にここで絞首刑に処されました。
↑ガス室
1940 年 8 月から 1943 年 7 月まで、この建物は死亡または殺害された収容所の囚人の遺体を焼却する火葬場として機能しました。 1941 年 9 月末、最初のガス室が旧死体安置室に作られました。 SS は 1942 年 12 月までここを使用をしていました。
あなたは今、SS が何千人もの人々を殺害した建物の写真をみています。 ここではどうか沈黙を守り、彼らの苦しみを思い出し、彼らの記憶に敬意を表してください。
戦前、この建物は弾薬庫でした。
1940 年 8 月 15 日から 1943 年 7 月まで、親衛隊はここを火葬場として使用しました。 1941 年の秋、収容所当局によって遺体安置所として設計された最大の部屋が、即席のガス室として使用できるようになりました。これは、アウシュヴィッツでは初めてのことでした。
チクロン B のペレットによって生成されたガスを使用して、何千人ものユダヤ人が、アウシュヴィッツに到着してから数時間以内に SS によってここで殺害されました。 ソビエト捕虜のいくつかのグループも、この方法でここで殺害されました。また、仕事に戻る可能性が低いと考えられていた病気の囚人も殺害されました。 ドイツの簡易裁判所で死刑を宣告された収容所の外から来たポーランド人は、ここで射殺されました。
↑焼却に使用された機械
1942 年の春と夏に、ユダヤ人の大量殺戮のためにさらに 2 つの簡易ガス室が第 2 アウシュヴィッツ ビルケナウに設置された後、ここでのガス処刑は徐々に中止されました。
その後、アウシュヴィッツ イル ビルケナウで焼却棟を備えた 4 つの専用ガス室が完成したことで、ここでの死体の焼却も中止されました (1943 年 7 月)。 その後、建物は倉庫として利用され、その後SSの防空壕として利用されました。 焼却炉、煙突、壁の一部が解体され、チクロン B が注がれた SS を通る屋根の穴が塞がれました。
戦後、博物館はガス室と火葬場を部分的に再建しました。 ガス室の屋根のいくつかの開口部と同様に、煙突と 2 つの焼却炉は元の構成要素を使用して再建されました。
↑ガス室に入れられた人々の爪痕が今もなお残っています。
アウシュビッツ2号‐ビルケナウ収容所
アウシュビッツービルケナウ収容所はアウシュビッツ1号よりもさらに広大でアウシュビッツ1号では約2万人の収容人数でしたが、ビルケナウ収容所では9万人に上がりました。
ナチス・ドイツによって全ヨーロッパから連行された、約100万のユダヤ人の大量虐殺を目的とした設備の殆どは、アウシュビッ2号・ビルケナウ収容所において建設されました。
それと同時にここは、1944年には9万以上の囚人(ユダヤ人、ポーランド人、ジプシー、ロシア人など)が収容され、木造の囚人棟が300以上あった最大規模の強制収容所でした。
ここには囚人の遺灰が捨てられた場所や多くの史跡が現在まで残っています。
囚人棟
膨大な敷地、保護されている数十棟の粗末な囚人棟と破壊され廃墟となった囚人棟跡、13kmを超える収容所の囲い、10kmに及ぶ収容所内の道路と2km以上の線路は、人間の大量虐殺を唯一目的としていたアウシュビッツ収容所の特殊な構造を明確にしています。
↑一つの囚人連には約700人もの人がぎゅうぎゅう詰めで生活しており、衛生面などは最悪、食事もパンと水のようなスープのみだったそうです。
犠牲者を輸送した「Ramp」
↑収容所に集められた犠牲者はこのような貨物列車に乗せられ、ビルケナウ収容所へ運ばれていきました。Ramp-ランプが向かう最終地点はガス室になっています。
ガス室と焼却炉の跡
↑この門の先へ進むとガス室・焼却炉があります。ここに立つだけで何とも言えない不安感が沸き起こりました。
↑ガス室、焼却室跡。破壊されており、ほとんど原型をとどめていません。
あたりはとても静かで、ただただ広大な土地となっており、
外にいるというのに、鼻の奥深くにくる、カビの匂いもした快適とは言えない。
ガス室跡にはレンガに黒くカビのような藻が生えていた。
外はこんなにも晴れているのに、なんともいえない、匂いに気分が悪くなり
また外と、ガス室の対比がより鮮明と感じ、何とも言えない違和感に、不思議と不安感や居心地の悪さをひしひしと感じました。
その中、あたりは花が咲き乱れ、風が吹く。ただ、崩れた瓦礫の中から、過去の人間が起こした悲劇になんと言葉を出したらいいのか、私にはわかりませんでした。
ガス待機室
↑ここでは働けなくなった子供、女性がガス室へ向かうまでの待機場として使用されていました。
ここに入れられた人たちは食事も与えらず、ガス室へ向かう前に餓死してしまう人がほとんどだったそうです。
この部屋がいっぱいになるとSSが無差別に部屋から庭へだし、門に鍵をかけ、死ぬまで外へ置かれたそうです。
↑中は薄暗く、窓も少ない。
↑壁には犠牲者たちが残したであろう、メッセージが壁中に書かれていました。
犠牲者の国際追悼記念碑
↑この記念碑は1940年~1945年にかけてアウシュビッツ・ビルケナウ収容所で犠牲になった犠牲者にささげられています。
まとめ
いかがでしたでしょうか?
アウシュビッツへの訪問は私にとって良い経験でした。過去の戦争による悲劇、恐怖がいかに人を簡単にゆがめてしまう。戦争を起こすのも人で、起こさないようにするのも人という、元囚人の名言も残されており、私もこの悲劇を目撃した一人として、小さな力だとしても、この悲劇が再び起こらないよう、ここからお伝えできればな、と思います。
アウシュビッツへ訪問したものをYOUTUBEにだしています。より映像で詳しく知りたい方はどうぞ、ご覧ください。
アウシュビッツへ訪問する方へ
これからアウシュビッツへ訪問する方へ、アウシュビッツでの守ってほしい公式ルールと手荷物、服装、行動などまとめました。